人気ブログランキング | 話題のタグを見る

晴風万里

関川夏央著「子規、最後の八年」を読んで



照る日曇る日第433回

近代日本語の建築とそれを通じての俳句と和歌の近代化に多くの功績を上げた子規について思う時、そのイメージの中心で浮遊しているのは根岸の子規庵である。短すぎた彼の晩年の暮らしと芸術の拠点はこの粗末な寓居であり、そこにくりのべられた六尺の病牀であった。

私が根岸の里の子規庵を訪れたのはもう二〇年以上も前になる。それはラブホテル街に囲繞された辻の奥に突然現れた。その狭い小さな日本家屋の六畳間には生々しい生活の臭いが漂っており、開け放たれた硝子戸の外には糸瓜がぶらさがり、緑の小庭の向こうには白い雲を浮かべた青空が広がっていた。

突然、「どちらからお見えですか?」と尋ねたのは、子規の母八重を思わせる老女であった。しかも彼女の傍らには子規の妹律を思わせる若い娘も座ってこちらを見つめている。私が湘南からやって来た居士の一ファンであることを伝えると、老婆はいきなり皺だらけの顔を私に寄せてきて子規の高弟たちの悪口を滔々と述べはじめた。

もちろん子規ではなく、どうやら鼠骨の遺族と思われる彼女は、当時既に東京都の管理所有化にあった子規庵になおも同居していて、たまに訪れる私のような子規ファンをつかまえて、子規のお陰で有名になった高弟たちが、その実いかに子規庵の保存に冷淡かつ怠慢であったかを縷々訴えていたのであった。しかし子規の最後の八年間のみならず「子規山脈」のその後を沈着冷静に伝える本書を読めば、老婆の恨み節になんの根拠もないことが良く分かる。

明治三五年に子規が死ぬと碧悟桐、虚子、左千夫、不折、鳴雪など一〇名は子規庵保存会を設立し、長く毎月一円の資金援助を提供するなどして遺族の生活と偉大な師の旧居を支えた。

本書によれば、旧友会の中心人物であった寒川鼠骨は、「仰臥慢録」など子規の遺稿を古書市場に横流ししたと子規の義孫の忠三郎から非難されたようだが、おそらく米軍機の空襲で焼失した子規庵の再建のために鼠骨が独断でやったことだろう。子規庵の隣に住んで遺族律と同居した寒川鼠骨の貢献は大であり、彼なくしてこのフィールド・オブ・ドリームスの現存はありえなかった。森鴎外が羨んだように、寒川鼠骨のような師匠思いの弟子を数多く輩出したことこそ、子規居士の偉大な人徳というべきだろう。

鼠骨のみならず虚子との複雑で微妙な人間関係、左千夫、節の弟子入りの経緯、在米の真之、在倫敦の漱石との屈折した交流などについても一歩踏み込んだ解釈を示し、とりわけ当時の緊迫した国際情勢との相関関係の中で子規の世界観と文学観を論じた本書は、21世紀の子規本の新たな規範となるに違いない。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 子規



世の中に混ぜご飯ほど美味しいものなし三合を三人で食べる 茫洋



by amadeusjapan | 2011-06-05 11:08 | 読書

あまでうすが綴る音楽と本と映画と詩とエッセイ
by amadeusjapan
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

以前の記事

2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧