人気ブログランキング | 話題のタグを見る

晴風万里

加藤典洋著「太宰と井伏」を読む



降っても照っても第62回

何度も何度も作品を読み、考え、そして論理とひらめきの端子を辛抱強くつむぐことによって編み上げられた精巧な織物のような文芸評論である。

周知のように、太宰は1948年6月に玉川上水で山崎富枝と心中したが、それまでに都合4回の自殺未遂と心中を繰り返している。

しかしいずれの場合も左翼運動の行き詰まりや、生家からの除籍と結婚生活への不安、生家からの仕送りの打ち切り、妻の裏切りなどでその原因がはっきりしているが、唯一成功した最後の試みの原因だけが、以前深い謎に包まれている。

事実前年の「斜陽」で一躍洛陽の紙価を高からしめた太宰は、当時超人気の流行作家で、ひところの睡眠薬やアルコール中毒の後遺症からも脱し、少なくとも外見からは死ぬ理由などひとつもなかった。

それなのに太宰は「人間失格」を書いて死ぬ。そしてそれはなぜか?と著者は問うのである。

作者は「人間失格」をはじめ太宰治の当時の作品や生活、とりわけ恩師井伏との対立関係などを詳細に分析し、新しく敗戦が彼にもたらした戦争の死者への同情と後ろめたさ、またそれと拮抗するように再び呼び出された、「忘れたい、そして忘れがたい人間の記憶」が、彼を死に突き動かした最大の要因であると指摘している。

「ひとからなんと思われようと、おれは生きる」といったんは決意して小山和代と別れたはずの太宰は、しかし「純白の心」を持つ死者たち、すなわち

 大いなる文学のために、死んでください。
自分も死にます、この戦争のために。

と、太宰に書き遺して死んだ若き弟子たちとの約束を果たすために、あの三島のように潔く自死したのである。

この本では、太宰とその恩師井伏の晩年の角逐についても詳しく紹介されている。

どんなに汚れた心に身を堕しても、したたかに生き延びる頑強な生活者である井伏に多大の恩義を感じながらも、太宰は、最後の最後の瞬間に反旗を翻して、「家庭の幸福は諸悪の本」という純白の御旗を勇ましく打ち振りながら死地に乗入れた。

飼い犬に激しく手を噛まれた渡世の達人井伏は、内心忸怩とした気持ちで最愛の弟子を見送ったにちがいない。

さらに著者は、三島と太宰は同じ死に方をした、と本書で断じている。
彼らは、平和と民主主義と幸福と豊かさと醜い大人の処世術というものにまみれた彼ら自身の戦後の薄汚い生き方をどうしても許容できず、己の手で己を切断する道を選んだというのである。かててくわえて、三島の恩師川端までも、三島の「純白の心」からの糾弾を受けて後に自死を遂げている。

太宰の遺書と考えられる「人間失格」の丁寧な読み直しから記述されるこれらの考察はきわめて論理的で説得力に富む。

しかし、確かに太宰の晩年の心境が「ギリギリのところで正直に語られている」作品だとしても、その次に書かれた、太宰の本当の遺作にして絶筆の「グッドバイ」は、いささか「人間失格」の世界とは異なる心境が披瀝されているように私には感じられる。

太宰は「人間失格」においてドンズマリに陥った即死状態から懸命に身を起して、ふたたびこの汚れた人間共魑魅魍魎どもが跋扈する穢土に雄雄しく居直り、もういちど生き直そうとしていたところ、運命の女との突然の遭遇によって不慮の死を遂げたのではないだろうか?

成熟した大人がこの世で生きることの苦しさと馬鹿馬鹿しさとユーモアとペーソス……。太宰の未完の最後の作品「グッドバイ」は、ヴェルディの最後にして最高のオペラ「ファルスタッフ」に似た独自の世界の端緒を創造することに成功している。

もしも太宰が、彼一流のファルス、人間喜劇の新しい物語を見事に歌い終えていたならば、彼はもはやけっして自死への誘惑に身を任せることはなかっただろう。

とまあ、著者の驥尾に付して勝手なことを書き連ねてしまった私だが、本人ならぬ私たちが死んでしまった人の死因をあれやこれやと臆面もなく想像し、とやかく議論することなど不遜であるばかりか、そもそもその作業自体が不可能なのではないだろうか? 

もしそうだとすれば、本書の著者の最初の問いかけ自体が虚妄であるというほかはない。



by amadeusjapan | 2007-10-08 09:38 | 読書

あまでうすが綴る音楽と本と映画と詩とエッセイ
by amadeusjapan
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

以前の記事

2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧