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晴風万里

早春賦



バガテルop92

 今年もまた春が来ました。亀田さんの庭に桜の花が咲き、樋口さんの庭ではだいぶ前から白いモクレンが咲き誇っています。
朝の驟雨がお昼にはおさまって青空がのぞいたので、妻君と一緒に近くの朝比奈の滝まで散歩に出かけました。土饅頭のようなうてなの上には、朝の光をさんさんと浴びて、無数のスミレが可憐な水色の花をつけています。

私は漱石の「菫程の小さき人に生まれたし」という俳句を思い出し、生まれ変わったら来世ではこの美しい植物、あるいはその上空を飛び回っていたルリタテハになりたいと念じたことでした。
漱石は絵も字も名刺までもとても小さくて細いのを好む人で、それがこの作家の独特の繊細さと狂気すれすれの神経過敏の度合いを物語っていると思います。
どうして急に漱石を思い出したかというと、私の家のカレンダーが漱石だからです。1年12か月の12枚全部が、漱石が実際に書いた和洋の数字でできているという、世にも不思議なカレンダーを毎日眺めているので、散歩しているときにもふいに漱石が出てきたのでしょう。

朝比奈の滝が昨夜来の雨で増水して音を立てて落下しています。すぐそばには鎌倉市が2,3日前に立てた「国史跡朝夷奈切通し」の看板があって、当地の由来が4カ国語で説明されています。

私たちは無人の朝比奈峠をゆっくりと登って行きました。左右の沢からは清流が勢いよく流れ下り、その音がウグイスやキセキレイのさえずりと混じってまるでこの世の極楽のような気持ちにさせてくれます。

私は妻君を落葉が散り敷いた斜面に案内し、「ほら見てごらん、今年もオタマが孵ったんだよ」と自慢げに言いました。もう10年以上前からこの一角はいろんな種類のカエルが水溜りで交尾し天然自然に産卵する、市内でも貴重な場所なのです。ところが市の土木課が突然「世界遺産にするための環境整備」と称してこの周辺の樹木を伐採し、いままであった数少ない水溜りをブルドーザーで埋めてしまいました。

仕方なく私は長靴を履き、スコップを持って汗だくで原状を回復してやったのですが、そのささやかなスペースに今年もまたいくつかのカエルの卵とそこから孵化した小さなオタマジャクシを見つけたときの喜びは、なにものにもかえがたいほどでした。

「あらまあ、おかあさんガエルがいるじゃないの」
と妻君が驚いたように言いました。見ると水溜りの中に一匹の黄色いカエルが両手と両足を少し広げるようにしてふわりと浮かんでいます。
「おやおや、これはびっくりだ。ようこそカエルさん」と私が言うとそのカエルが突き出した瞳をちょっと右に動かして私たちの方を見ました。

 カエル君をあんまり驚かせるとよくないので、隣の水溜りを覗いてみると、なんとそこにももう一匹のチビガエルがあわてて水底に潜り込もうとしていました。市役所があれほど野蛮な工事を行なったので、あんきに冬眠していた動物たちは全滅したのではないかと心配していたのですが、杞憂だったようです。

「また昔のように一〇組以上のカエルが盛大に交尾するようになると楽しいよね」
と妻君が言ったので、私は「うん」と大きく頷き、
「しかしこのままだと蛇や人に見つかって全滅するおそれがあるから、ここのオタマを今のうちに分配しておこう」
と言いながら、掌に掬った小さなオタマジャクシを、近くの他の水溜りにせっせせっせと移してやりました。
家計や日本経済と同じで、こういう風にリスクヘッジしておかないと、現在またまたま繁盛している生息箇所も、初夏の旅立ちまでの長丁場に、不意に破壊されたり、死滅してしまう危険があるのです。

「やっと終わったぞ。今年もなんとか元気に生き延びてくれよな」
と、祈る思いで緑色のうるんだ卵の塊を見つめていると、
「おとうさーーん。おかあさーーん」
という野太い声が、峠の麓の方から聞こえてきました。私たちが散歩に出たと知った長男が、急いであとを追いかけてきたのでしょう。
声に驚いてウグイスが飛び立った椿の梢から、一輪の紅い花弁がぽとりと落ちました。


   ♪コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな 茫洋



by amadeusjapan | 2009-03-21 11:14 | エッセイ

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