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晴風万里

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続・NHKが好き



♪バガテルop30

 昨日NHKには多少の知性があるが、民放にはそれもなくて痴性しかないと暴論を吐いた。しかしそれにはそれなりの原因がある。ドラマにせよ、ニュースにせよ、NHKと民放では制作費のスケール、そして制作費の大元である経営母体の売り上げが違うのである。

例えば民放首位のフジテレビの06年度の総売り上げは5826億、日テレ3436億、テレ朝2511億に対して、NHKは単体でも6432億、これに加えてNHK子会社は2310億の受信料収入予算をもって世間のよいこの皆さんに純良番組を提供している。
だから、その大半が民間企業からのCM収入に依拠している民放が、もしも本気でNHKの大河番組やスペシャル番組に挑んでも、はなから勝てるわけがないのである。

 もしも民放がNHKのような「世のため人のためになる番組?」を真剣につくったとしても、テレビを玩具にしながら自らも資本のペットと化しているあほばか大衆の視聴率は取れないし、取れなければ売り上げが減って会社がつぶれてしまうので、民放はますますあほ馬鹿番組の制作に血道をあげ、かくて我ひとともに文字通りの白痴となって亡国の道を疾走するしか能がないのである。

スポンサーと巨大広告代理店だけが神様である民放には、そもそも表現の自由も真実を追い求めるジャーナリズムもへったくれもはなから存在せず、普通の企業と同様の単なる熱烈な利益追求会社であるにすぎない。その点では、南京虐殺番組ひとつをとっても政府御用達のNHKのほうがまだましなマスメディアである。

聞けば、NHKの番組受信料が高すぎるからもっと安くせよ、と総務省の役人が迫っているようだが、私は年間1.5万円くらい払い続けても構わないからNHKはあまり視聴率を気にせず、いまのままでそれこそ粛々と番組つくりに精出してほしいと思っている。

問題は、あほばか番組に狂奔する民放である。

NHKは有料だが民放は無料だと思っている人がいるかもしれないが、トンでもない。06年度のテレビ広告費2兆円の実態は、すべてトヨタやサントリーや資生堂やソフトバンクなどの大企業の広告宣伝費であり、その膨大な経費の大半は、私たちが購入するカローラやウーロン茶や白つばきや携帯の価格に全額転嫁されている。

では具体的にどれくらいの金額なるのか計算してみよう。
さきほど述べたように06年のテレビ広告費はおよそ2兆円、これをわが国の総所帯数約5000万で割ると1軒当たりおよそ年間4万円を私たちは身銭を切って負担していることになる。ちなみに現在あほ馬鹿民放局は東京だと5局あるから、われらあほ馬鹿視聴者は、1局あたり年間8000円も投じてあほ馬鹿番組の制作に全面協力していることになる!

このように民放のあほばか番組は、私たちのとぼしい財布のお金を原資として、どこの誰とも知れないあほばかプロぢゅーサーとその奴隷的抑圧のくびきにあえぐ低賃金労働者たちがせっせせっせと製作しているのだから、私たち納税者ならぬ第1次スポンサーは、もっと声を大にして彼らの視聴率第1主義と拝金主義、ならびにその非人間性と低俗性と死に至るニヒリズムをテッテ的に攻撃し、「私たちが本当に見たい番組」をつくらせるようにダンコ要求するべきなのである。っっと。

もっとも「その私たち」が本当に見たい番組が、あの「オーラの泉」や「ズバリ!言うわよ」であるならば、それこそ「なにをかいわんや」なのですがね。


♪天高く鳥に告げたり残し柿
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by amadeusjapan | 2007-11-30 11:49 | エッセイ

NHKが好き



♪バガテルop29

私は何を隠そう民放テレビ大嫌い、NHK衛星放送大好き人間である。その理由はいままでさんざん民放テレビで放送される番組、ではなくて、その番組のおまけで放映されるCMをさんざんつくってきたので、もうCMなんか二度と見たくもないからである。

CMのない番組といえばNHKしかない。そこで朝から晩までNHK、特に衛星放送のニュースと大リーグ野球と海外ドキュメンタリーとよいこの童謡とちりとてちんとFMと映画とクラシック番組を鑑賞し、あとの2種類についてはすべて録画してDVDに収めている。
恐らくその大半は墓場の中でゆっくり鑑賞することになるだろうが、それがまあ私の唯一の趣味といえば趣味である。

私はニュースもCMがみだりに乱入しないNHKの、とくに衛星第一放送の定時放送を好む。理由は第一に私の好きな冷たい美貌のひらゆき姫が出てくるからだが、美形の女子アナにかまけているのは民放も同様だから、この点ではあまり大きな違いはない。思えば80年代のテッド・タナーのCNNがこの素敵な悪趣味を先導したのだ。

理由の第二は、NHKが報道価値が高いと彼らなりに判断した価値観の順番にしたがって、つまり重厚軽薄の濃度の順に、それなりの報道人らしい秩序と規律をもって、事実だけをたんたんと普通の日本語でアナウンスするからである。

多くの民放テレビのように、ニュースと娯楽、犬と猫、味噌と糞とを混同したり、脳天を直撃するような金切り声(特にフジテレビの女子アナ)で絶叫したりしないからである。

番組の最中に食事をしたり、セックスしたり(はしないか)、実際にはその場にいないはずの人物の品格皆無の馬鹿笑いが聞こえたり、いったいどこが面白いんだか食えないメニューを美味そうに食うという虚偽を演出してぬか喜んだり、「実食!」などと奇怪で醜い造語を乱発したり、平気で漢字を間違えたり、それを絶対に訂正してお詫びもしなかったり、ナレーションの7割を体言止めにしたりしないからである。

そして第三に画面のレイアウトが、きれいとまでは言わないが、まずは普通でおとなしいからである。民放の白髪3千丈風の扇情的なテロップ、まずい食い物をマイウーとうなり、腹の中では驚いてもいないのに、ウソオーとおどろいて見せ、まともな情報は皆無でもこれでもかこれでもかと羊頭狗肉を叩き売り、朝のテレ朝の時刻表示の人を馬鹿にしているような異様な大きさを見よ!

民放のほとんどの番組は、私のような棺桶に片方の足を突っ込んでいる超保守的視聴者にとっては糞であり、奇体なガジェットであり、空虚なごらくであり、文字通り無意味な、死せる映像と音声の氾濫である。こんなもん全局今日の午後に突然なくなっても、おいらはちっとも構わないぜ。

ではあるが、しかし民放がぜんぜんだめかというとそんなこともなくて(笑)、先日ビートたけしが主演する松本清張原作のテレビドラマ「点と線」を見て、久しぶりに面白かった。

 昔原作を読んだときには1番線から15番線の間に4分間だけ見通せる時間帯があると思っていたのだが、13番線から15番線だというので、それなら40分くらい空白の時間があったのではないかと思ったりしたが、それもやはり私の寄る年波にせなのであろう。

しかし惜しむらくは演出がまるでゆるかった。音楽もおざなりであった。あれだけ制作費を投入するなら、せめて霊界で暇をもてあましているだろう野村芳太郎とか内田吐夢に演出させ、伊福部昭か武満徹に曲をつけさせたかったと思うのは、私だけだろうか。
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by amadeusjapan | 2007-11-29 09:12 | エッセイ

吉本ばなな著「まぼろしハワイ」を読む



照る日曇る日 第76回

「だってさあ、天国に行っても、きっとお酒は飲めるし。でもそこにはきっと順番はないの。きっとさ、思ったことがさっと叶うんだよ。父さんと母さんはそういうところにいるの。きっと。まわりの空気がゆっくりと甘くて、包まれてるみたいで、ハワイみたいなところだよ。こんなところに行きたいと思ったらひゅっと行けるし、私たちの顔が見たいと思ったら、すぐに来れる。順番はないんだよ。そこには。靴をはくにはひもを結ばなくっちゃってことはないのよ。きっと。」
姉さんは言った。(同書p167)

著者の日本語は、いつものようにわれらにしみじみとした滋味豊かな世界を髣髴させてくれる。登場人物の表白のあとに、どの人物がその主体であるかをあえてことごとしく明示する文体もそれなりに個性的であり、最近朝日新聞での連載が終わった萩原浩?の座敷童子?やその後で始まった長島有?の(私にとっては)たったの1行すら読むに値しない小説の無残な出来栄えに比べれば、まるで月とスッポン、雲泥の違いである。


それはともかく、両親自殺や交通事故で奪われ、地上に残された子供たちが死者を忘れるために訪れ、しかし死者の思い出に引きずり込まれ、最後に再び死者たちの記憶から解放されて新しい人生に旅立っていく。それが常世の國ハワイである。らしい。

私はまだ一度も行ったことはないが、著者自身にとっても、ハワイはこの世の天国であり、もしかするとこの世とあの世をつなぐ生と死の通い路なのであらう。

たしかに南国には無数の精霊がいるだろう。しかし著者は1941年に死んだ真珠湾の兵士たちの亡霊の存在だけは都合よく忘れてしまっているようだ。

私はハワイと同様グアム、サイパン、ロタなど今なお祖霊彷徨う戦死諸島に、なんら心のひっかかりさへ感じないであほ馬鹿観光に行く日本人が大嫌いだ。

しかし、世の中にはいろいろな障碍があって海外旅行など一生できない数多くの人たちがいるというのに、思いついたらハワイへ「ひゅっと行ける」人が超うらやましいな。

それにしても、ばななはどうしてこうも親を死なせる小説を書くのだろう。もしかしてファーザーズコンプレックスの持ち主なのだろうか。

ふたたび本書の引用をして終わろう。

「飲みに行ったとしましょう。居酒屋に行く、座る、マスターに挨拶、メニューを見る、飲み物から決める、相手がいたら相手とおつまみを相談する、そして注文して、それがひとつずつ来て、食べる。それが生きてるってこと。死んだらできない唯一のこと、つまり順番を追ってきちんと経ないと進まないってことだけなのよ。現実は。」
姉さんは言った。
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by amadeusjapan | 2007-11-28 11:36 | 読書

ある丹波の女性の物語 第23回 前田先生



遥かな昔、遠い所で第45回

若い日の私に一番影響をあたえたのは前田先生であろう。先生は日毎に軍国主義になって行く事への不安と批判を語られた。そして私が感じている家の宗教としての基督教への不満にこたえてくれる、唯一の人であった。

 作文は新任の横田先生が来られ、前田先生は本来の歴史の先生に戻られた。
 横田先生は前田先生のようには心酔出来なかったが、私がだんだん万葉集にひかれていったのは、この先生の影響であったろうか。時々先生は酔ったように万葉の歌を詠じられた。

 大本教弾圧につづいて、2、26事件、そして日中戦争と、大きな事件が一番感じ易い時代に次々と起こった。しかし私は幼い時からの基督教的な影響や、物事を冷静に正しく見る目を前田先生に養われていたから、時流に流される事はなかったと思う。前田先生に学ぶ歴史教室は一般教室から独立していたから、遠慮なく時局の動きに就いても正確に話してもらった。

 年号の暗記は意味のない事だ。教科書に書いてある事は自分で読めば分る。歴史の勉強とは、正しい目で事件の本質原因を究明し、結果を勉強する事だと教えられた。教科書問題を裁いた今の裁判官にもきかせてやりたい言葉だ。
その間には、京都でみて来た洋画の事や、新刊の本等の事も面白く語られ、いつも実に新鮮で興味深かった。先生の時間は楽しみで、みんな生き生きと、目をかがやかせて聞き入ったものだった。

 時局柄そうせねばならなかったのであろうが、校長先生以下国粋主義を高揚される先生方の中にあって、前田先生は全く異色の存在であった。
 先生は独身で長身、音楽が好きで、すべての点でみんなの憧れの的であった。時には孤独な身の上を語られた。また若い日に病を養いながら、日蓮宗に夢中になり、禅宗に凝り、
プロテスタントからカトリックへと動いた心の遍歴をも語ってくださった。

 信仰は与えられるものではなく、自ら求めるものであると思い、幼い日からの自分の信仰に贅沢な悩みを持っていた私は、かたくなな心がとききほぐされてゆくようなものを感じた。
先生は悩みを聞いて解決策をあたえるのではなく、聞く事によって心の重荷を軽くして下さる方であった。「病弱な自分は二十九歳まで生きられたら充分であると思っている。」等と話されると、同情も加わって、先生の人気は尚上昇した。


♪もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

♪おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく
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by amadeusjapan | 2007-11-27 10:40

ある丹波の女性の物語 第22回 大本教弾圧事件



遥かな昔、遠い所で第44回

 一番小さい店員さんが、満豪開拓少年団に入隊していったのもその頃だった。
 女学校でも毎朝、朝礼で軍時色の濃い歌を斉唱するようになり、月の何日かは日の丸弁当を持参するようになった。日中戦争が進展し、占領のたびに提灯行列が行われた。

 しかし女学校時代の一番強烈な事件は、やはり昭和10年12月の「大本教弾圧事件」であった。
 夜明け前に突然物々しい警察の機動隊が大本教本部を襲った。町民は何の事かと分らないまま物すごい足音に目をさました。

 通常どおり女学校の授業は続けられたが、すぐ近くで行われるすごい破壊力には肝をつぶした。五重の塔の屋根も大音響と共にサカサにひっくり返り飛んでしまった。すべての建物はこわされて行った。私はその地響きと、恐ろしさを身近で体験した。

 その頃、大本教は本宮山に十字型の長生殿を建設中で、王仁三郎さんは駕籠で上がり下りしていた。教祖は市の瀬に土まんじゅうのような墓所にまつられていたが、不敬罪という名のもとに弾圧が行われ、教主、信者多数が投獄されていった。
あまりのすさまじさに、言葉もなかったが、何だかとても大きい権力が、おおいかぶさって来るような恐ろしさを感じた。

♪花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

♪なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校
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by amadeusjapan | 2007-11-26 07:32

ある丹波の女性の物語 第21回 金丸先生



遥かな昔、遠い所で第43回

 近くのお菓子屋さんに下宿していた作文の金丸先生は、ずんぐりしてみかけは悪かったが、私を可愛がってくれた。

作文の研究発表会というのがあり、府下の先生達の教材に私の作文が選ばれた。橋立への修学旅行の感想文だったと思う。私はその頃かぶれていた吉田絃二郎風に書いたので、テレくさくて「どんな気持で書いたか」と言う問いに、しどろもどろになり、何と答えたのか分らなかった。

金丸先生は一年の三学期の初めに、大阪城の資料館の館長になり綾部を去られた。ニコニコした丸い顔と、マグロのさしみのような唇が印象的だった。

 その後任に前田先生が入って来られた。初めての授業の日、教壇をうつむいて動物園の熊のように行ったり来たりされた。「この新米先生、テレてるな」小さくて前列に並んでいた私はそう思った。
 これが前田先生との初めての出会いであった。

 満州国の建国もあり、世の中は動き出しているのに、私達はあまり関心がなく、友達と宝塚に夢中で、福知山線で宝塚歌劇をよく観に行った。男装の麗人、小夜福子と葦原邦子が人気を二分していたが、私は一寸しぶい汐見洋子が好きで、当時騒がれたターキー等はわざと観にいかなかった。

 父はチャップリンの「街の灯」とか、新劇の「綴方教室」「オーケストラの少女」とか、話題に上がるようなものは京都へ観に連れて行ってくれた。またヘレンケラー女史の講演会にも、学校を早退させ大阪の扇町教会で一緒に聞いた。


♪なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

♪わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ
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by amadeusjapan | 2007-11-25 11:41

エドワード・ラジンスキー著「アレクサンドルⅡ世暗殺」を読む



照る日曇る日 第74回

ロシアを代表する人気作家エドワード・ラジンスキーが書いたロマノフ朝第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世の治世とその暗殺を描いた、上下巻あわせて750ページのドキュメンタリー超大作である。

ロシア文学は好きだが、ソ連とかスターリンとか日ソ不可侵条約の侵犯とか、この國の暗くて寒くて陰湿きわまる国家社会の内幕には、ロマノフ朝も含めて興味も関心もなかった私だが、読んでみると非常に面白かった。

そもそもロマノフ王朝はそれまでの混乱と対立に終止符をうってかのピヨートル大帝が1682年に創生したというのだが、1725年大帝の死後この偉大なる王朝を継いだエカテリーナ1世の前身は、なんとバルト海岸に住んでいた美しい料理女マルタであるというから驚く。

エカテリーナ1世の死後、当時全権を掌握していた近衛兵に担がれて帝位を継いだのは、そのエカテリーナ1世の娘エリザベータであったが、彼女はピヨートル大帝の子ではなく、マルタの夫の子であった。
エリザベータは自分の甥を皇位継承者に任命し、このピヨートル3世に妻となるドイツの公女エカテリーナ2世を娶わせた。しかし勇猛な近衛兵アレクセイ(および近衛兵軍団)と結託したエカテリーナは、気弱な夫を暗殺して彼女の王朝を独占した。2人の間に生まれた皇子パーヴェル1世はエカテリーナの情夫アレクセイとの子供であったといわれる。

してみれば偉大なるロシア史に燦然と輝くロマノフ王朝には、じつは無名の料理女の好色な血が脈々と流れてきたことになる。ロマノフ王朝打倒を目指したデカブリストたちはこの王朝の世紀の秘密を知っていたのかもしれない。

それはともかく、この本を読むと、夭折した天才プーシキンをはじめ文豪ツルゲーネフオブローモフ、トルストイ、チエーホフ、そしてドストエフスキーが生きて愛して死んだロシアという國の文化的風土というものがなんとなく分かったやうな気になる。

さうして嘉永の黒船来航から明治維新を経て西南戦争後の、つまりは日露戦争にいたるまでのこのロシアという大國を覆っていた封建制、政治的専制、農奴制、社会的後進性などの重苦しい風圧を体感することができる。やうな気がするのである。

さらには、農奴制を廃止しただけではなく、憲法発布にも鋭意取り組んでいた「英明なツアーリ」アレクサンドル2世が、自らの保身のためとはいえ、なぜ自らの首を絞めるような進歩的な自由化改革を進めたのか、さうしてその結果ナロードニキの台頭を許し、彼らの決死的自己犠牲と革命的テロルの犠牲となって王座を血まみれにして哀れな最期を遂げるにいたったかが、私の黄昏色の薄ぼんやりした脳みそにもかすかに理解されてくるからまっこと不思議である。げに恐ろしきロシアン・ドキュメンタリズムの勝利というべきか。

アレクサンドル2世は、6度繰り返された暗殺の魔手をそのつど間一髪逃れてきたが、不撓不屈のテロリストの通算7回目の企てによって、占い師の不吉な予言どおり明治14年(1881年)3月1日ついに暗殺された。

その朝必死に外出を止める新婚で最愛の皇妃エカテリーナを「公邸で陵辱する」ことによって沈黙させ、彼は死出の旅に出るのだが、最初のダイナマイトの爆発からかろうじてまぬかれたにもかかわらず、他の複数のテロリストが待機している現場を立ち去ろうとせず、ついに2度目の爆発の犠牲者となってしまう道行は、さながら飛んで火にいる蛾のように不可解であり、もう少し賢明に振舞っていれば、隻脚を失ったとしても恐らく一命を取り留めていたに違いない。

この日皇帝のおびただしい出血で血まみれになった冬宮の大理石の廊下と階段を、靴やズボンを祖父の血で汚しながら連れてこられた13歳の少年がいた。
その少年ニキは、おびただしい血の中で皇太子ニコライとなり、成人して大津で日本の巡査のサーベルで血にまみれ、そして1917年に真っ赤な血の中でロマノフ王朝最期の皇統を絶たれるのである。

当時アリーヨシャがテロリストとなる「続カラマーゾフの兄弟」を執筆していたドストエフスキーは、アレクサンドル2世が暗殺されるわずか2ヶ月前に亡くなった。
書斎で落としたペン軸を拾おうとして重い書棚を強引に動かしたために血を吐いてその完成を見ることなく、あっけなく死んでしまったのである。
ドフトエフスキーの部屋の隣には、暗殺の実行犯たちのアジトがあり、晩年の作家はテロリストたちと交流しながら続編の想を練っていた、と著者はほのめかすが、それは恐らく眉唾だろう。

しかし著者が記録するドフトエフスキーの最期の姿は、皇帝アレクサンドルの最期と同じように私たちの胸を打つ。
死の当日、彼は流刑されたデカブリストの妻たちが昔彼に贈った福音書をアンナ夫人と息子のフェージャに差し出し、有名な「放蕩息子の寓話」を声を出して読むように頼んだ。   そしてそれが終わると、彼はこう言った。

「子供たちよ、ここでたったいま聞いたことを決して忘れてはならない。主に対する一途な信仰を守り、主の許しを決してあきらめてはならない。私はお前たちをとても愛している。しかし私の愛も、主がみずからおつくりになったすべての人々に対する無限の愛と比べると、無も同然だ。忘れないでほしい。お前たちが生きているうちに犯罪に手を染めることがあったとしても、それでも主に対する希望を失ってはならない。お前たちは主の子供であり、お前たちの父に対するように主に対してへりくだり、主に許しを乞いなさい。そうすれば主は放蕩息子の帰還を喜んだように、お前たちの悔い改めをお喜びになるだろう」

ドストエフスキーが死んだというニュースは、瞬く間にペテルブルグ中を駆け巡り、彼の住居はまさに聖地巡礼の場になった。さうして死んだ作家の顔に見えるのは死の悲しみではなく、よりよき別の生の曙光だった、と伝えられている。
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by amadeusjapan | 2007-11-24 12:48 | 読書

ある丹波の女性の物語第20回女学生時代



遥かな昔、遠い所で第42回
 
「大学は出たけれど」と言う言葉が、流行語になるような就職難時代がやって来たけれど、私は相変わらず暖かい家庭に包まれていた。お茶の稽古に行き、初釜と云うと訪問着や絵羽織を作ってもらって喜んだりしていた。

 春には両親と揃って醍醐の花見に行き、黄檗山で普茶料理をいただいて、夜は都踊りを楽しむような何年かが続いた。父には絶対服従の母の楽しみは十二月の顔見世見物で、昼夜通しで見たあと、翌日は岡崎へ文展を見に行くのが恒例であった。

 私は昭和8年4月、京都府立綾部高等女学校へ入学した。近在から入ってくるのは村長さんか、郵便局長さんの娘さん位で、小学校の同じ組からも10人もいなかった。
 後で知った事だが、同級生の中には500円で芸者の見習いに売られた子もあったという。その頃、女学校の授業料は年間35円位、寄宿舎は1ヶ月食事を含めて10円だったと思うが、授業料の催促で事務室へ呼ばれている人もあった。先生も余っていたようで、文系の先生は京大大学院出の優秀な先生であった。

 不景気風と共に軍国主義が徐々に強まって来たがまだまだのんびりした時代であった。夏休みには丹後の小天橋に学校の臨海学舎が開かれ、私も参加して泳ぐ事を覚えた。夜になると浜辺の松林をうなりを立てて風が吹き荒れた。生まれてはじめての親と離れての経験だったが、夜はキャンプファイァーに興じたりした。友達同士の1週間は楽しかった。

 12月23日は街に待った皇太子誕生で、みんな素直に喜び、行動で「皇太子さまあ、お生まれえなした」という歌を斉唱した。


万葉植物園にて棉の実を求む
♪棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

♪いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し
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by amadeusjapan | 2007-11-23 11:50

長楽寺を偲ぶ



鎌倉ちょっと不思議な物語90回

長楽寺はかつて長谷211番地から225番地にあった廃寺で、文応元年1260年の大火事で焼けたそうだが、その場所は、つい先日まで中原中也展が開催され、その庭園に秋バラが咲き誇っていた鎌倉文学館のすぐ傍にあった。

『鎌倉志』によればこの寺には法然の弟子で隆寛という僧が住んでいたという。『日蓮聖人御遺文』『日蓮上人註画賛』に、日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がこの寺にいた、とあるのは、この隆寛のことではないだろうか。

以上は主にわが枕頭の書『鎌倉廃寺事典』をからの孫引きだが、もっと耳よりな情報がある。それは昔むかし、この文学館の入り口の小さな寿司屋で、若くして亡くなった人気女優Nと流行作家のIが夜な夜な逢引していたそうな。

このI氏はまごうかたなき短編の名手であるが、長編は苦手である。というのは彼は一刻も早く連載を終えて賭け事や遊びに飛んで行きたいので、あまり長くなるとプロットを忘却してしまい、死んだはずの登場人物が突如現れたり、その逆がかなりの頻度で起こる。

これは実際私が週刊新潮の連載で体験したことであるが、読者はみんな忙しい。昨日の新聞や先週の週刊誌などをひっぱりだして再確認する暇人などおそらく1000人に一人もいないだろう。それに、そもそも小説など真面目に読む人などほとんどいないので、登場人物が死のうが生き返ろうがどうでもいいのである。

そんな次第でI氏には本人にも復元が難しい数多くの幻の長編小説があるらしい。廃寺事典ならぬ廃文事件である。
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by amadeusjapan | 2007-11-22 11:52 | 鎌倉案内

ある丹波の女性の物語 第19回



遥かな昔、遠い所で第41回

 座敷が新築されてから、基督教の伝道に来る先生方の宿を進んでするようになり、賀川豊彦先生は5、6度も泊まられ、その他本間俊平先生など多数の先生方が宿泊された。
 今の世も何かを求める時代と言われるが、当時賀川先生の講演会等は、公会堂も超満員で、その場で受洗希望者が聴衆の中から沢山進み出た。

先生は燃えるような人であった。胸を病んでおられたから、いつも柱にもたれていられたが、睡眠時間は短く、祈りの人でもあった。父は冷静な学者タイプの先生より、行動派の先生に傾倒したようである。
今の生協の基となった「生活協同組合、共益社」を作り、父は組合長になり、日常生活品や賀川服等も一時売っていたように思う。

 私には幼児洗礼を受けさせ、物心つく頃から日曜学校に通わされたが、いつも何となく批判的で、父の祈りにこたえる事の出来ないような子であった。何か悪い事をすると親に詫びる前に、祈って神に許しをこわねばならぬのには閉口した。教育にも熱心で、玉川学園の小原国芳さんの教科書を取り寄せたり、小学生全集も揃えてくれたが、病後ハネ廻って遊ぶ事の出来なくなった私は、自然隣の本屋に入りびたり、本屋の小母さんに可愛がられることを良い事に、列んでいる雑誌を興味本位に読みまくった。

少女の友、主婦の友、婦人倶楽部、婦女会等の小説それに新青年、宝石等のミステリー物が大好きであった。牧逸馬などが当時の流行作家で色々のペンネームを持っていた。とにかく手当り次第で、何かで見た中勘助の「銀の匙」に感激したり、吉屋信子は美文調で甘すぎる等言って小母さんを苦笑させた。芥川竜之介も大好きで、自殺に憧れたりした。

 履物店は製造を止めて母の仕事となり、店員5、6人、お手伝いさんは行儀見習いのお姉さんが1人か2人いてくれた。けれど仕入れだけは父の仕事で大阪の問屋へよく連れて行ってくれた。

日曜日に行くと、午前中は大阪の教会で礼拝を守るのには不服であったが、昼食はレストランやホテルでフルコースの食べ方を教えられる事もあり、心斎橋の洋服店のウインドに出ている流行の服も買ってくれた。

 戦争前の履物問屋街は、実にひどい所が多かった。今はすっかり焼けてその面影もないが、種類によっては被差別部落の問屋のある裏通りへも行った。父はどんな店へ行っても態度を変えず、パリッとした背広で、きたない座ぶとんに腰かけ、差し出されるお茶もおいしそうに飲み、私にも飲ませた。

♪かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり  愛子
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by amadeusjapan | 2007-11-21 08:28

あまでうすが綴る音楽と本と映画と詩とエッセイ
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