晴風万里

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2008年亡羊睦月詩歌集



♪ある晴れた日に その20


おみくじは引かずに帰る鎌倉宮

なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ

去年今年生きてしあればそれでよし

初日の出今年も市中に山居せむ

小便の泡で描きたる髑髏かな

父祖伝来暗黒面に光なし

粛々と死地に赴く銀の船

元旦やわれよりもまず家族かな

在庫無く迎える朝に日が昇る

冬の朝わが欲望の遠ざかる

どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない

神田なるチャールズ・イー・タトル商会にあこがれし日もあり
 
こなくそと振り下ろしたる刀かな -偲龍馬

亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな

真っ青に晴れ上がりたる冬空にわが初めて獣になりし日を思う

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

神実在森羅万象すべて不可知なり

大寒やわが欲望の小ささよ

新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 

ひよめじろやまがらおながしじゅうからうぐいすみんなこいこいわがやのときわさんざしへ

正岡の子規が作りし月並みの句ほど好ましきものはない

果樹園で柚子を拾いき花いちもんめ

果樹園で彼女の屍体は見ざリけり

我もまた穴で春待つ土竜かな
 
一月も半ばになりて仕事来ず

今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん

正月なし無用の用に精進する息子

わが息子寝る間惜しみて描きたる愛犬ムクの絵売れ残りたり

神仏に祈りし甲斐やムク売れる

はにかんで笑った顔がぶれていた月本氏死す弱冠四十七

ただ一人泣いていたりし通夜の客

莞爾たり無私たり自娯たりし月本氏死す享年四十七

我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ
 
教壇のチョークの粉にまみれつつ白けた魂を熱く燃すべし –最終講義

あの世からの刺客のごとく手裏剣を生徒の胸にシュルシュルと刺す

わが実存かけて発する言の葉よ若き胸に落ち善き実を結べ

子規漱石もし今の世にありとせばいかに生きるやいかに死ぬるや

音程が悪いとわれが罵りしその流行歌手は左耳聴こえず –許せ鮎女

昼は尨犬のごとく街頭を彷徨い夜は鮪のごとく眠れり

闘争を紛争、敗戦を終戦と言い換える人が嫌いだ

道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ

誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に長く馨るよ

空に鳥万象すべて不可知なり

一月も終わりになりて仕事来ず

善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年
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by amadeusjapan | 2008-01-31 09:05 | 詩歌

ホッブズ・ファッションの時代



ふあっちょん幻論第7回

前回、私は80年代に女性の肩パッド入りジャケットがアウト・オブ・ファッションになると同時に婦人服の全体的なシルエットがよりミニマムで身体にきちんとフィットした細身のシルエットに変化していったこと、それからおよそ二十年近く遅れて紳士服のシルエットが同じようにスリムな形に変化したという記事を書いた。

ところがたまたま1月25日附の朝日新聞夕刊を見ると、スタイリストの原由美子さんが08年春夏のパリコレでイヴ・サンローランが発表した肩パッド付のネービーの袖なしジャケットを紹介していた。

そしてその記事の中で、原さんは「もう80年代のようなジャケットブームは帰ってこないと考えていたけれど、下に長袖を着てウエストにはベルトを締めたこの着こなしこそは今の時代に求められている新しいタイプのジャケットである」と断言し、ブームの再来の可能性を期待しているようにも見える。

ご存知のように、衣服と身体あるいは皮膚との間にはつねに鋭い緊張関係が存在しており、(皮膚は脳そのものだ)その感覚と懸隔はその時代とその時代を生きる人間との相関関係を微妙に反映している。

過ぎし高度成長の時代はまだ帝国の臣民の政治経済社会の意識は環境に対して鋭角的に鋭く対峙していたから、詰め襟の学生服や企業のお堅い制服に代表されるようにそのシルエットはぴたりと身体に密着していた。

ところがわが神国日本が大きく経済成長を遂げ、帝国臣民が総体として豊かなになり、肥え太った臣民たちの精神は著しく弛緩すると共にその典型としてバブルの時代が訪れると、前述の巨大なフィット&フレアのシルエットが畏れ多くも畏くも華麗に花開いたのである。

しかしその後のデフレ時代と世界的なテロと不安の時代が世界のファッションを再びスモール&ミニマム&ハードフィットネスの時代へと逆流させ、アホ馬鹿小泉がわが帝国において将来したいわゆる格差ふぁしずむ時代の登場が、「万人が万人に対する敵であり、衣服は潜在的な敵としての他者に対する最小の武器である」という前代未聞のホッブズ・ファッションの時代を招来したのであった。

このように重苦しい背景をひきずっているだけに、私はこのサンローランの新デザインは、原さんがいうように「肩パッド付きジャケットの再現」ではあっても、「21世紀後半のフィット&フレアのビッグ・シルエットへの大きな回帰」のさきがけとしての象徴的な意味を持っている」とまでは、まだ確言できないような気がするのである。


善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年 亡羊
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by amadeusjapan | 2008-01-30 08:55 | ファッション

小島信夫著「暮坂」を読む



照る日曇る日第92回

この本にはさまざまな人物とそれらの人物がかもし出すさまざまな事件というか日常生活の断片が次々に描かれる、それはそれとして面白くないこともないのだが、読んでいて退屈になるどうでもいい挿話も続々と出現してきて、普通の私小説なら作者と作品の主人公はおおむねイコールであり、作者は読者を意識し、読者を楽しませることを主眼に物語を書き連ねるのだが、本書の場合は基本的にはその私小説という形式を踏襲しながらも、作者と同じ名前を持つ小島信夫という名の小説家を登場させたり、有名無名の作家や友人や宗教家などを無遠慮に出現させたり、小説のなかで彼らを狂言回しにして一種の哲学や考察を開陳したり、平板であるはずの私小説の世界を数多くの実在、非在の人物が暗に陽にうごめく奇怪なモノローグ詩劇のような異様な劇世界に仕立て上げてしまう結果となっており、そこが旧来の伝統的な私小説との違いであるとは分かってはいても、ではどうしてこのような奇妙かつリスキーな文学的な実験を敢行するのかと問えば、それは小島信夫という人間の謎を小島信夫という作家が完璧に解明しようとして自分が自分に仕掛けた生存の罠なのであり、多くの経験と蹉跌を経てそれ以上の血路を切り開こうとすればこうするほかはなかったとでも言うべき小説の方法的制覇への裏道、前途の勝利をまったく予測できない必然的な道行きであったとしかわれひと共にいえず、その結果作者自らがあとがきで述べるように美術評論家のU氏だの新興宗教の教祖的存在であるY氏だのZ氏だのが踵を接して登場し、それらのいずれもがきわめてうさんくさい存在のように見え始め、例えば書家井上有一の支持者であり彼の評価をここまでの高さに引き上げたといっても過言でもないU氏を作者が尊重し擁護すればするほど私たち読者の目にはそのU氏のみならずくだんの井上有一の芸術性すらも例えば白隠禅師の書の本物性に比較すればいささかどころか大いに遜色のある偽者性をその作品内部に含有しているのではないかとの疑念が湧くのをいちがいに押し留めることができないし、もっと言えばこのような怪しくうさんくさい人々との交友を深めていく作者自身に対するうさんくささもいや増すばかりなのだが、ほかならぬ作者が自らのうさんくささについて公言しており、またおよそこの世の中にうさんくさくない人間がたった一人でも存在するだろうか、文学とはそうしたうさんくささを徹底的に掘り下げることではなかろうかと考えるとき、もはや私たちにできることは外野席からとやかく批判する愚に陥る危険を避けて、この自己探求という名の泥濘に覆われた薄明の暮坂をどんどん下っていく気狂い老人の行方をただただ凝視するしかないのだった。


新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 亡羊
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by amadeusjapan | 2008-01-29 08:09 | 読書

吉本隆明、梅原猛、中沢新一著「日本人は思想したか」を読む



照る日曇る日第91回

梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書である。今から10年以上前の対談であるが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値がある。

例えば次のような中沢などの指摘があって興味深い。
 
太閤秀吉の刀狩と喧嘩停止令が出されたために、平和な江戸時代になって博物学と物産、自然と性愛に対する興味と好奇心が高まり、その結果喜多川歌麿は当初の自然画から性愛画へと進み、西鶴の遊郭色道文学が流行し、本居宣長の性愛色道肯定の源氏物語論などが登場した。源氏物語とは、あるいは文学とは、つまりは「もものあわれ」なのだ。

また梅原は「古事記」は人麻呂によって書かれた歌物語であると断じる。「竹取物語」は天武帝時代の権力者へのカリカチュア、「万葉集」は柿本人麻呂や大伴氏への、「伊勢物語」は藤原氏に弾圧された在原業平への、「源氏物語」は源氏への、「平家物語」は平氏への鎮魂歌でありながら法然浄土教の宣伝の書であり、「古今集」は政治的生命を絶たれた紀氏の文学者独立宣言の書である。

吉本は「源氏物語」が日本の空間的な四季観を初めて確立したといい、中沢は反道長派の「枕草子」だけがこの空間化に対抗し反発したという。吉本は「新古今集」が古典的和歌リズムの絶頂と崩壊の始まりと見る。そして連歌だけは古今的で厳格な宇宙観、論理構造を受けついだとされる。

次は音楽と宗教についてである。

空也と一遍は踊る聖だった。行脚と踊りのダンスミュージックが日本芸能の発端としての縄文的&ディオニソス的音楽芸術となり、西行、芭蕉、山頭火あるいは近世の毛坊主たちによって大衆化されて、現代のストリートミュージックやフォークやロックに続いている。とこれは私の勝手な追加。

新宿角筈の地名は十二社の裏の熊野神社が毛坊主たち(浄土真宗などの信者で半僧半俗の有髪の人)の集落で、彼らが手にした「鹿の角の付いた杖」から来ていると中沢は言う。空也像もこの角筈を手に持っているが杖の脇には瓢箪がぶら下がっており、柳田國男はこの瓢箪は楽器だと書いている。

毛坊主たちは、近世のアホダラ教のチョボクレにみられるように、いつもパカポコパカポコお経をやっていた。かつて比叡山では声明をメロデイで歌っていたが、浄土宗の毛坊主たちのアホダラ教の音楽も基本はリズムである。

西欧のプロテスタントがキリスト教から美術や装飾を取り去ったためにバッハの宗教音楽のようなドイツ音楽が本格的に発展したように、仏教から美術と装飾を否定した浄土宗から、わが国の固有の音楽と文学が生まれた。(親鸞は景教の僧侶が漢訳したマタイ伝を読んでいたそうだが、もちろん浄土真宗=キリスト教ではない。表向きは一神教に見える浄土真宗も実際は選択的であり、いわば必修的な西洋一神教とは本来的に違う)

「新古集」の古典的な調和の美学は、中世の平家物語や太平記の音楽的文学、戦う武士を疾駆させる馬の蹄の跳躍の音、ギャロップのリズムによって置き換えられる。西方極楽浄土を揺るがす悪党たちの全身的破壊的ゲリラミュージックが日本の芸術に縄文的生命を注ぎ込んだのである。

そして結論。

人間と自然と神が三位一体で密接不可分であるというオリシア=基督教のコスモス思想はキリスト教内部のグノーシス派やマルチンルター、その後のヘーゲル、実存主義などによって崩壊し、予定調和的コスモスから疎外された個人と現代社会は孤独なままで漂流している。

その現代人と現代社会の「病気」を超克するには、一方では縄文、アイヌなど原始的な生命力の掘り起こしと同時に、革命的な科学技術の登場が必要である、と吉本は説くが、具体的な手がかりがどこかに転がっているわけではない。

ハイイメージ論以降の吉本の唯一の生産的な仕事は、近代詩の中心価値は比喩であり、直喩より隠喩を上手に駆使している詩のほうが文学的に上位にあると説く「詩学叙説」くらいのものではないだろうか。この対談においても発言内容、頻度ともに他の2人に力負けしているのは昔からの一ファンとして歯がゆい限りである。けれども、考えてみれば現代のアポリアについて白黒いずれか2分法の浅はかな回答を拙速に行なうことが優れた思想家の使命ではない。とすれば吉本氏はまことに賢明な不可知論者という道を選んだというべきだろう。

いずれにしても私は本書のタイトルではないがまったく思想などしないでただ生きている人間なので、激しく思想しているこの三人に大いなる知的刺激を受けた次第である。


空に鳥万象すべて不可知なり 亡羊
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by amadeusjapan | 2008-01-28 16:17 | 創作

ある丹波の女性の物語 最終回 



遥かな昔、遠い所で第69回

 生涯病弱だった継母の死は、其の4年後の63年11月に訪れた。90歳を5日後にひかえた死であった。

 夫の死後1年で創業100年余の店をとじ、殆ど床にある母と2人きりの暮らしが続いた。それでも気分の良い日には教会に出かける日もあり、継母は教会だけが生き甲斐であった。

継母も熱心な信者を父に持って教育されたが、家が仏教だったら、きっと熱心な仏教徒で終わったろうと思う。中々頑固な所もあったが、追々と私に心を開いてくれ、感謝して、生命の灯が消えるように召されて行った。

 1人残された私も昔風で云えば古稀を迎えた。高血圧の私は、いつまで生かされるか分らないが、人に迷惑をかけぬよう終わりたいと願っている。

矢内原忠雄、内村鑑三等、本棚もあさってみたが、すでに老化した脳には消化する力はない。今は教理などどうでもいい。絶対者に全てをゆだねようと思う。私を愛してくれた天上の人々との再会も又、楽しかろう。

 すべてが感謝である。子供達、孫達との想い出は、したためずとも、それぞれの心の中に沢山きざんでいるにちがいない。

 私は父のように立派な足跡は残せないが、母のように、そして夫のように、いつまでも人の心の中に優しさを残す人になりたいと願っている。


衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや  愛子       

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ 愛子


1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく  愛子

 

あとがき

ある丹波の女性、佐々木愛子は大正10年1921年2月22日に生まれ、平成14年2002年3月23日に81歳で亡くなりました。「ある丹波の老人の物語」は彼女の父の伝記でしたが、この「ある丹波の女性の物語」は1989年から1990年にかけて彼女自らの手で執筆された自らの半生記で、息子であるわたしが各回の文末に1975年頃から95年頃までの間に彼女が詠んだ80首余りの短歌と俳句をあわせて掲載しました。

母は、もちろん単なる下手の横好き、一介の市井の歌詠みでしたが、「歌は心が満ちればおのずから生まれるもの」というのが、生前枕草子や万葉集を愛した彼女の考え方でした。そのためか、どの作品も拙いながらも技巧にとらわれることなく、虚心坦懐に思ったまま,感じたままを素朴な調べに乗せて歌っている点が、身内贔屓の目には好ましく感じられます。
とりわけ最後の作品は、歳をとっても少女らしい夢を失わなかった故人の人柄が儚い虹のように美しくあらわれているような気がしてなりません。帰天した母もまた、きっと小さく青い星になって、いつまでも私たちを見守っていてくれることでしょう。


我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ 亡羊
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by amadeusjapan | 2008-01-27 10:07

ある丹波の女性の物語 第46回 



遥かな昔、遠い所で第68回

 父が召されて28年がたってしまった。時代は移り変わり、洋装の時代となり店は縮小していった。

 夫は父の死後、株に興味を覚え、ラジオの短波放送に聞き入る事が多くなった。そして1年後には持ち株の殆どをうしなってしまったのである。38年の大暴落をまともに受けた訳である。

 しかし、長い間養子として父に押さえられていた、若い日の代償と思えば、それは安すぎるものかも知れないと思う。
 その後、夫は教会に熱心に通い、父への墓参をかかさなかった。

 その間に、長男は早稲田へ、次男は府立医大へ、娘は同志社へと進学、揃って特別奨学金も受け、アルバイトもしてくれた。

 59年、夫の死は全く夢のような出来事であった。隣の街に入院している人に、とどけものをしようと、綾部駅へ急ぐ途中心筋梗塞が起こり、自分で近くの病院へ行き、そこで息がたえたのである。出かけてほんの僅かの出来事で、とても信じられなかった。

 夫は朝のジョギングを長年つづけ、自分の健康には自信があったので、医師になった次男にも脈をとらせた事がなかった。最後の脈も、とらせる事なく召されたのである。

 夫も教会の役員となり、社会奉仕にもつとめたが、目立つ事の嫌いな人であった。しかしその優しさは、人の心にうつるものがあったようで、死後、思いがけない人々から慰めの言葉を頂いた。



水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ   愛子   (「水無月祭」は綾部の夏祭り)  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ  愛子


打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり 愛子


 
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by amadeusjapan | 2008-01-26 10:12

ある丹波の女性の物語 第45回 



遥かな昔、遠い所で第67回

 37年6月21日、その父が突然亡くなったのである。

 大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、天に召された。

 父は自分の思う通りに生き、まさに天国への道をかけのぼっていったように思う。当時、中学2年の長女が、この祖父の死に就いて記しているが、この祖父の活きざまにひどく心を打たれたようである。

 「祖父の生涯は、祖父が好んでいた聖句―――我にとりて生くるはキリストなり、死もまた益なり―――そのもののように感じられた。」
 「私の心の中と写真の中の祖父は、今もなお、悲しい時にはなぐさめ、心配がある時には自信をつけ、嬉しい時にはいっしょに喜んでくれる。私は、永遠に、祖父の思い出、祖父の全てのことを、忘れる事はないだろう。」

父は生前好んだ白百合の花に、うずまるようにかこまれて葬られた。
 「血は水よりも濃し」というが、私は自分の生涯をふり返り、全然血のつながりのない父が、血縁のない私を心から愛してくれた事を感謝すると共に、血以上のものがあると思う。私がそう感じる一方、それ故に、父の死は夫に初めての解放感をあたえたと思う。

 父には何かの予感があったのか、死の前夜、私に色々と昔話を語り、「自分の一生は、時間に追われて暮らしているようなものだった。時間のかねが打つ度に、生命の縮まる思いで働きつづけた。お前達の一生暮らしていける貯えは充分してあるので、これからは自分達の生活を楽しみながら、ゆったりと過ごしてほしい」と語った。

 
登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては  愛子

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて  愛子

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて   愛子   (「深夜便」はNHKラジオ番組)
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by amadeusjapan | 2008-01-25 09:51

ある丹波の女性の物語 第44回 喜寿



遥かな昔、遠い所で第66回

 夫もボツボツ休みながら、仕事も出来るようになり、34年の問屋の招待旅行には、私に姉の絢ちゃんと2人で行くようにすすめてくれ、出雲大社への旅行に出かけた。
2月末なのにとてもあたたかくて、皆生温泉では私達姉妹には浜辺の離れをあてがわれ、松籟や潮騒の音をききながら、生まれて初めて、2人きりの夜を色々と話し合った。

 36年5月5日には、みんな元気で、父の喜寿を祝う事が出来た。

 父の甥や姪など大勢を招いて、由良川沿いの小高い山にある料亭で宴を開いた。庭には藤の花房もたれ、さつきも満開、由良川の小波も陽にかがやいて美しく、父も大満足で、鼓を打ち、謡をうたった。みんなも心から父の喜寿を祝った。

 夫は発病後、煙草も、好きな囲碁の夜ふかしも止め、毎朝ジョギングを始め、発病前より以上の元気を回復した。
 父も、もっぱら教会の事、ギデオンの事に一生懸命で、高校や、病院などの聖書贈呈にいそしんだ。


級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく


藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ
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by amadeusjapan | 2008-01-24 08:40

ある丹波の女性の物語 第43回 夫の入院



遥かな昔、遠い所で第65回


 父が念のためにと、夫を京大病院の結核研究所へ連れて行った。開放性ではないが、肺炎と結核におかされているので、要入院との事で、直ちに綾部の郡是病院の結核病棟に入院した。

私はすでに覚悟はしていたけれども、入院準備はすべて終え、夫を1人ベッドにおいて帰ろうとした時、泣くまいと思うのに、涙があふれ出るのを止める事が出来なかった。しかし夫は、優等生と言われる程おとなしく闘病してくれたので、33年秋には無事退院する事が出来た。

 住み込みの女の子もよく慣れてくれていたし、父は夫の留守の間は手伝ってやると、がんばってくれた。私も皆が起きるまでに毎朝病院を訪ね、帰ってから店を開ける事にして、懸命に働いた。

 父も入院中の夫を聖書を持参してはげまし、他の患者さんにも伝道した。

 夫の退院祝に、鎌倉の兄からテレビを贈りたいとの申し出があったが、長男はすでに中学1年、次男も1年おいて中学生になるので、相談の上、毎日のお弁当作りに重宝なものをと、まだ田舎では珍しい電気冷蔵庫を、秋葉原から送ってもらった。
 子供達は3人揃って人が羨む程成績がよくて、全く心配がなく、その点ではとても恵まれていたと思っている。


浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり 愛子

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ 愛子

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり 愛子
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by amadeusjapan | 2008-01-23 10:01

ある丹波の女性の物語 第42回 旅行 



遥かな昔、遠い所で第64回

 翌32年も問屋の九州旅行に、私達は再び参加した。

2月は一番ヒマな時期なので、父達も心よく留守を引き受けてくれた。別府、阿蘇を経て、長崎から雲仙、三角港から熊本へと1週間の旅であった。阿蘇山上は一面の雪で、あのこおりつくような寒さは忘れられない。熊本でも積雪がある寒い冬であった。

 4月の末には倉敷の夫の実家に法事があり、兄弟姉妹、夫婦で全員集まれと言う事で、私達も店には応援の人を頼み、これにも参加した。私は倉敷へは初めての訪問であった。

鷲羽山の旅館で宴会があり、甥のバィオリンでダンスも始まった。和やかな楽しい集いであった。「春の海ひねもすのたりのたりかな」そのままに、瀬戸内の波はおだやかであった。そのベタ波を目のあたりに眺め、新鮮な魚に舌鼔をうった。夫も心からくつろぎ、みちたりたようであった。兄弟姉妹って、なんていいもんだろうと私も心から思った。

 その年の5月、高熱が出る風邪が大流行した。店もしめ、学校も休みになった。我が家も全員発熱。互い違いに、1週間程休んでおさまったのであるが、夫だけはいつまでもすっきりしなかった。





散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花 愛子

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり 愛子

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に 愛子
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by amadeusjapan | 2008-01-22 09:46

あまでうすが綴る音楽と本と映画と詩とエッセイ
by amadeusjapan
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こんにちは。 私も汐留..
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