晴風万里

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洋服解体新書



ふあっちょん幻論第41回

幕末から明治にかけて洋服の強制的な導入はさまざまな混乱をもたらした。たとえば和服は直線裁ちであるが、洋服は曲線裁ちである。曲線裁ちのできる洋服職人もそんな技術も不在だったので、足袋職人が最初の縫製士となった。足袋職人たちは外国人から仕立てを学び、洋服を解体しては組み立てて縫製を行なった。医学のみならず洋服も「解体新書」の時代があったのである。

江戸時代の洋服は「蘭服」と呼ばれていた。オランダ、阿蘭陀の蘭である。明治5年1872年学制公布の一環で詰襟背広の洋装が導入され、当時の帝大で明治19年1886年に軍服を手本として学生服が採用されたが、これは学生が着る蘭服だから、学ランと呼ばれるようになった。黒の生地に5つの金ボタンの詰襟に学帽というスタイルが以後の原型になったのである。

1980年代には日本被服工業連合組合が襟のカラーは白、ボタンは5個、装飾的な刺繍などが裏地に入らないことなどの細かな基準を決定。認証マークつけた。卒業式に女性が第2ボタンをもらう習慣の起源は武田泰淳の小説「ひかりごけ」(特攻隊員がひそかに思いを寄せていた兄嫁に軍服の第2ボタンを渡した)という説があるそうだが、そんなことが書かれていたかなあ。
(後段の情報は朝日新聞のコラムより転載しました)

♪我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな 茫洋
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by amadeusjapan | 2009-03-24 08:17 | ファッション

メンズ漫録その8 明治皇后の衣服改革



ふあっちょん幻論第31回

 明治19年、天皇は病気がちで執務と行幸を怠ったが、その代理を洋装で務めたのが皇后だった。

宮廷の旧来の類型を打破して、皇后が初めて洋装で公衆の面前に登場したのは同年7月30日に華族女学校に行啓し、卒業証書授与式に出席した時だった。

翌月の8月10日には、皇后は天皇とともに西洋音楽会に出席し、洋服姿で初めて外人客に接見した。それは鹿鳴館の物真似ではなく、聡明な彼女の内部で芽生えた自立的な自己意識の産物だった。

さらに皇后は、天皇の代理で横須賀造船所で行われた軍艦武蔵の進水式に出席したり、赤羽で行われた近衛兵の戦闘訓練を観戦し、11月26日には巡洋艦浪速、高千穂に試乗して水雷発射作業を観覧し、「事しあらばみくにのために仇波のよせくる船もかくやくだかむ」と詠んだ。

翌20年の元旦、皇后はこれも開闢以来初めて洋装大礼服を着け、宮中の祝賀を受けたが、以後このコスチュームがこの種の儀式での慣例となった。1月17日に彼女は女子服制に関する「思召書」を発布したが、ここで彼女は「着物は14世紀南北朝以来の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明に適しないばかりか、古代の日本女子の服装とも異なる。着物よりもむしろ西洋女性の服装が古代につながる。『宜しくならいて以って我が制と為すべし』と述べ、これが国産服地の改良、販促につながることを期待したのであった。

以上はD・キーン著「明治天皇」からの抜粋でしたが、私はこのような男勝りのスーパー国粋派女帝や三韓征伐に挑んだ神功皇后よりも皇室の非人間性に窮して病気がちの雅子妃の自虐的に抵抗しつつ苦悶する態度の方がよっぽど普通ぽくて好ましく感じられます。


つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら 茫洋
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by amadeusjapan | 2009-02-11 16:43 | エッセイ

ある丹波の老人の話(45)



第七話 ネクタイ製造最終回

ネクタイの生命は柄にあります。これで他店にヒケを取ってはならん、と私は京都高等工芸出の意匠図案係三人に欧米の流行を参考にするようにと指示して研究させました。

この頃、私は郡是でスンプという機械が発明されたという耳よりな情報に接しました。これは顕微鏡のプレパラートと同じようなものをきわめて簡単に、しかも即座に作れるというのです。

早速動植物の色々な部分を拡大して眺めてみますと、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠をそこから得ることができ、ネクタイの柄、模様、デザインの世界に一大新機軸を開くことができたんでした。

東洋ネクタイ製織所の活動は、戦前のわが国の産業飛躍に小粒ながらも貴重な役割を担ったと自負しておりますが、やがて日支事変となり、それが太平洋戦争に突入する頃には、洋服も廃れて国民服に変わり、ネクタイはぜいたく品としてさっぱり売れなくなってしまいました。

昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしもうたんで、東洋ネクタイ製織所はとうとう解散のやむなきにいたりました。

やがて敗戦となり、私は今度は趣を変えて、家内工業の小工場一〇余個所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、起業当初の原点に還り兄弟二人だけの会社にしました。そして前に述べたように弟の死後は長男がその後を継いで今日におよび、戦前ほどの華やかさはありまへんが、まずもって堅実な経営を続けております。
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by amadeusjapan | 2007-08-25 10:26

あまでうすが綴る音楽と本と映画と詩とエッセイ
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